由緒
養源寺は日蓮宗大本山池上本門寺の二十四ヶ寺ある塔頭(たっちゅう)寺院の一寺院として、370余年お釈迦さまの教え(法華経)の流布に努めています。
田舎の山寺のような景観の養源寺は、昔の面影を残しつつ、近年に本堂・書院の建て替えや樹木、境内の整備を進めてきました。
いつでも出入りできる四門から境内に入り、景色や四季の花々を楽しむことができます。
裏山には一階、二階、山上の墓地の他、二つの永代供養廟を構え、檀信徒様や有縁の方々のご先祖様をお守りしています。
「新年祝祷会」「節分会」「春秋お彼岸」「夏の盂蘭盆施餓鬼会」「お会式」などの年中行事を執り行い、ご参詣の方々と共に供養、修養をしております。
月例行事には読経とお題目修行・法華経の解説を聞く「唱題会」、修行体験が出来る「子ども寺食堂」、本堂を磨き上げる「お掃除会」など、どなたでも気軽に参加できるものがあります。
また、地域や縁のある方々とのコミュニティの場として、四季ごとのイベントを境内で行います。正月はお囃子と獅子舞で華やぐ「初詣」と「七福神めぐり」、春はお釈迦さまの誕生を祝う「花まつり」、
夏は「精霊送り盆踊り大会」、秋は幻想的な万灯が連なる「お会式」。これらもどなたでも自由に参加できるイベントです。
これらの運営はお会式の万灯講中「光遊会」が中心で、光遊会は檀信徒だけでなく老若男女40名余りで構成され、昨今は「子ども寺食堂」を運営する新たなメンバーも集まっています。
すべての行事の根底には「生きとし生けるもの、花や木々もすべてが調和して生きる安穏な世界が本来の娑婆世界である」というお釈迦さま(法華経)の教えを具現化したいという願いを込めています。
寺の隅々まで染み込む歴代上人の読経の功徳と養源寺の空気に触れ、門をくぐって来られた方々が門を出る時には、心が軽やかになっていることを日々願っております。
縁起
戦国時代に出雲の松平隆政(徳川家康の曾孫)の母である養源院殿妙荘日長大姉の発願により、もと荏原郡浜竹村(現在の大田区西糀谷三丁目付近)にあった本成寺を、松平家の所有である
現在の地に移し「養源寺」と改称、池上本門寺第十八世圓是院日耀上人を迎え、慶安元年(1648)に開創されました。
以来、本門寺歴代住職の隠居所となりましたが、享保四年(1719)から六年(1721)の間、八代将軍徳川吉宗公が鷹狩の折には、そのお膳所に定められたと徳川実記(録画訳公式日記)に伝えられています。文化元年(1804)の火災により全焼。その後、智海院日勝尼を初代とし、尼僧寺として復興されましたが、昭和二十年(1945)尼僧寺の制を廃して現在に至っており、ご本尊として一ツ橋家より奉安された一塔両尊(宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来像)が安置されております。また、池上七福神の一神、恵比寿尊天をお祀りし商売繁盛・家内安全をご祈念しています。
現在の新本堂や境内整備は当山第十二世前田利勝院首の陣頭により約七年かけ、平成十二年に円成しました。
昔の面影を残しつつ、四季折々に咲く花々や大小のお地蔵さまなど、門をくぐっていらした方がほっこり癒される空間が広がっています。
日蓮宗と徳川家は表面上特に関わりが深いようには見えませんが、家康公の側室で紀州徳川頼宣公(八代将軍徳川吉宗公祖父)と水戸徳川頼房公(子に徳川光圀公)の母でもありました養珠院お万の方は
日蓮宗の大信者で、後に紀州徳川家は池上本門寺の檀徒となり、徳川家と日蓮宗の関係は深いものとなりました。
年号
1648年(慶安元年) | 松平隆政の母、養源院殿妙荘日長大姉の発願で荏原郡浜竹村の本成寺を現在地に移し、寺と改称し開創。池上本門寺第十八世圓是院日耀聖人が初代住職となる |
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1655年(明暦元年) | 初代、圓是院日耀聖人ご遷化 |
1665年(寛文四年) | 第二世、廣宣院日布上人ご遷化 |
1719年~1721年(享保四年~七年) | 八代将軍徳川吉宗公、養源寺を鷹狩りの折のお膳所と定める |
1804年(文化元年) | 第三世、心是院日慈上人ご遷化 |
1886年(明治十九年) | 第四世、尼僧初代、智海院日勝法尼ご遷化(7月22日) |
1919年(大正八年) | 第七世、尼僧四世、智涼院妙順日慶法尼ご遷化 |
1926年(大正十五年) | 第八世、尼僧五世、本是院智應日養法尼ご遷化 |
1932年(昭和七年) | 第十世(加歴)、蓮華院日正上人ご遷化 |
1945年(昭和二十年) | 第九世、尼僧六世、智仙院妙境日隨法尼ご遷化 |
1981年(昭和五十六年) | 池上七福神の始まりと共に、恵比寿尊天を勧請 |
1988年(昭和六十三年) | 第十一世、妙行院日佑上人ご遷化 |
2000年(平成12年) | 第十二世、前田利勝院首の陣頭指揮のもと、新本堂、境内整備等、約七年かけ円成 |